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問題提供サービスとしての大学


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生かし屋という職業柄(なんだそれ)、大学生の書いた論文を読む機会があるのですが、読んでいてもやもやしたことを少し記そうと思います。


まず学術的な論文ではなく、大学の授業の一環として書かれた論文であると線引きしておきます。読んでいて率直に思ったのは、これは大学の授業でやるようなことなのかということ。誤解なきよう、大学ではもっとハイレベルな授業をすべきだという主張ではありません。僕が感じたのは、「お金を払って問題を提供してもらうサービス」という側面が大学にはあるということです。高等教育機関としてではなく、「こういう問題がありますよ」という問題提供サービス。なぜ分けるのかと申しますと、自らこれを見出して然るべき進度の問題を、授業の最終目標として掲げている、掲げてしまっているのではないかと思ったからです。


思考をもって取り組めば、2分で結論が出るものに対して、大学の授業で「こういう問題があるからグループで考えて論文にまとめてみよう」となると、議論を重ねて論文を作成するのに数日ないし数週間かかることもあるんじゃないでしょうか。さらに論文で文字に起こしたがゆえに見当違いの方向に結論付けたり、言語化が難しいがゆえにも大切な部分を省いてしまっている例が見受けられました。これは答えがない問題を扱う文系教科に顕著でしたが、答えがないからといって間違いがない・結論の進度が自由なわけではありません。


初歩的な問題のサプライが悪いわけではありません。一から問題を探すのは決して容易ではないですし、時間がかかるものです。問題提供サービスとしての大学、その側面自体を否定するのではなく、そこに留まることに「中身が入ってると思って持ち上げたヤカン」感がするのです。大学側は、「どこまで教え、どこから考えさせるのか」を高等教育機関として、「考えどころ」を再設定する必要があるのではないかと思います。僕も当時いくつかのオープンキャンパスで、「あ、そこを学んでいるんだ・・・研究しているんだ・・・」と実感しました。既知であり前提条件として発展させることができるにも関わらず、そこに尽力している様相がうかがえました。


一方で学生側にもこれを享受している現実があります。数年前、「Twitter設定5000円」が話題となりました。これと問題提供サービスに留まる大学の授業は少しリンクするような気がします。懸念の所在は「5000円払ってTwitterで呟けるようにしてもらったのに、一向に呟こうとしないこと」にあります。個人のことは放っておいてやれよ、そもそも大学の意義とはなんて話にもなるのですが、教育機関たらしめる側面が大学の一意性に寄与していることは確かです。高等教育・モラトリアム・余白、大学たる所以です。否定するならば大学としても立つ瀬がないですしね。


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http://twitpic.com/4o8snr(画像:Twitpicより)


第一歩として、問題提供サービスとしての側面を享受するのは意義があると思います。同時にそこに留まるのであれば、金銭的・かける時間・互換性など総合的に「割高」と見なさざるをえません。学びたい分野に沿っての問題提供は有用ですが、そう捉えるのであれば自然と時間のかけどころを改善すべきだと思います。アムダールの法則にも通ずるところがありますね。


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観念的な雑感でした。蛇足ですが国公立大学でも往々にある出来事です。もちろん、膝を打つような論文・授業もあります。「~すべき」は大学の存在意義という視点から考えればのことで、実際は個人の自由ですけどね。もやもやしたことが伝わるように記せたか分かりませんが、なんとなく伝わればと思います。