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無駄なものをいっぱい持っていたい

幸せ 考え事

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世のトレンドは未だにミニマリストです。持たない暮らしといいましょうか、シンプル指向で無駄なものを見極め、必要なものだけを持つという生き方で、そのスタイリッシュさから多くの賛同を得ています。部屋に机しかないみたいな極端なものは看過できませんが、シンプルでかつ実用性に富み、整っている様相を見ると素直にきれいだなあと思います。シンプルな暮らしを実践している方のブログもいくつか楽しく読ませていただいていますし、見る度に感心します。ですが僕自身は、対極のスタンスをとっています。


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無駄なものをいっぱい持っていたい、と僕は思っています。部屋はきれいに整理整頓しているものの、無駄なものでいっぱいです。たまにしか使わないもの、いつ使うかわからないもの、おそらく向こう一年以上使わないもの。捨てられないわけではないですが、置いておく選択をすることが多いです。実家の部屋にも、色んなものが眠っています。小学校の頃に修学旅行で買ったお馴染みの龍や剣のキーホルダーに手裏剣。使いかけのノートやメモ帳。お菓子の缶やお年玉が入っていた封筒。定期購読していた8年前の雑誌。多くのクリアファイル、使わない派なのに膨大な数ある下敷き、鉛筆やコンパスなどの文房具。理科の実験で使ったマグネシウムリボンやリトマス紙。分解した時計や、何かわからない金属片などなど・・・。きれいに片付いているように見えて、学習机の引き出しはカオスに満ちています。


昔は掃除するたびに、母親から「もう捨てなさいよ」と言われていました。その都度、「いいや、必要なんだ」と固辞する少年。無駄なものを捨てないという選択を繰り返してきましたが、今ではそれが全部宝物です。人は記憶にあれど、思い出すにはきっかけが必要なものが多くあります。何かを契機に、自分でも驚くほど急に昔のことを次々と思い出したりしたことはないですか?膨大な経験の記憶を背に今を歩んでいるわけですが、すぐに思い出せるものは限られます。それ以外のものは「記憶の引き出し」にこっそりとしまっておくんです。引き出しを開けるには、鍵が必要です。ですが、普段はどこに鍵があるかはわかりません。ふとしたことから、思い出すことが多いですが、能動的に引き出しを開けることもできます。それは郷愁に浸る機会を得ることです。思い出の場所を訪れてみたり、思い出の物に触れてみたり。それが僕の場合、文字通り引き出しにしまってあるわけです。


重要なのは、記憶の引き出しの1つには雑多に色んなものがしまってあることです。1つの鍵で1つの引き出しを開けたとて、想起されるのは1つのエピソードではありません。例えばマグネシウムリボン。それを直接使った実験だけでなく、理科の授業全般が思い出されます。火山灰の観察やバイオテクノロジー論議から、実験最中に怒られたこと。腹いせに「あの先生、腕毛もじゃもじゃでぜってー結婚できないよなー!」とか言ってた次の日に結婚報告されて空いた口が塞がらない少年。そこから別の理科の教師に巡っていきます。マリーゴールドの観察。しゃがんで真剣に説明する先生ですが、ズボンの股の部分がぱっくりと破けていました。マリーゴールドを観察しているのは先生だけで、生徒たちは別のゴールドを・・・なんつって。


これは思い出の鍵としての無駄なもの。今は必要ないものでも、1年経てば立派な思い出の品です。どう受け取るかは自分次第ですが。


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他の理由もあります。ま、理由なんて後付けに過ぎませんが。これまた子どもの頃、通学路には様々なものが落ちていました。古釘をはじめ、何かの部品であったろう金属片など。何の部品か分かるものはレアです。見つけると嬉しい気持ちになっていました。そしてそれらを集めておく秘密基地がありました。基地は数カ所あって、通学路にあったアイテムは、そこに集められます。コンクリート製の低い倉庫の屋根だったり、アルミ製のゴミ置き場の裏だったり、セイタカアワダチソウをかき分けて作ったスペースだったり。家に帰ると友達と通学路を引き返して、秘密基地に行き、これらのアイテムを使って新たな道具を精製します。今考えてもびっくりするようなギミックを使って、極めて特殊な状況でのみ便利なグッズを作ったものです。レール上でビー玉をぶつけ合って、脱線した方が負けという自分たちの遊びに使う、ビー玉を弾く装置とか。秘密基地に誰かが入ったら痕跡が残るような装置とか。色んなものを作りました。


成人式で帰省した際に秘密基地を訪れてみたのですが、さすがにもうアイテムは無かったですね。すこし悲しい気持ちになりましたが、そこで見つけた新たな古釘を持ち帰って机に入れておきました。また思い出すのでしょう。具体的なエピソードを引き合いに出しましたが、無駄な知識も同じカテゴリーに入れています。僕は何の役にも立たない知識を仕入れるのが好きなんです。なんの目的もなく、勉強のための勉強をします。日の目を見ない知識が山ほどあります。たまにクイズ番組などで登場しますが(笑)。


これはブリコルールとしての無駄なもの。一見用途が分からないものは、汎用性と潜在可能性を有しています。少年時代の例は、まさにブリコラージュして既存物では手の届かない痒い部分まで網羅している道具を作っています。


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 フランスの社会人類学者、民族学者であるクロード・レヴィ=ストロースは、著書 『野生の思考』のなかで、ブリコラージュ、ブリコルールに関して言及しています。彼の主張の本質とはズレが生じるかもしれませんが、本来の用途と関係なく、自分たちが必要とする道具を作る野生の人々が、道具の汎用性と潜在可能性に関心を示すということに注目し、このブリコルールたちから知のあり方を学んでいきます。
 彼らの持ち物は何らかの計画によっては定められたものではなく、その時点での企図とは無関係に集められたものであふれています。例えば鋭利で小さめの石であれば、槍の先端として用いることができますし、ある程度の長さがある丈夫な木の棒は、槍の柄として用いることができます。これらは自然の中で収集するものですが、用途がはっきりしているものだけでなく、彼らは一見すると何に使えるかがわからない、複雑な形をしているものであっても持ち帰ります。これは「何かの役に立つときがくるかもしれない」という精神に基いています。複雑で用途が限定されないものに、新しい発想や新しい組み合わせをもって、いずれ価値を見出すのです。言い換えれば、一見用途が分からないものは汎用性と潜在可能性を有す、と捉えることもできます。


これは何も道具に限ったことではなく、思考に対しても適用されます。複眼どころか創造する思考。銃弾や火薬などを湿気から守るために開発されたサランラップを、食品へ使用するがごとく、断片的にも意中にあるからこそ発想し得ることがあります。


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思い出の鍵とブリコルール。この2つの理由に加えて、単純な好奇心で僕は無駄なものをいっぱい持っていたいと思っています。無駄を省く、いらないものを捨てるということは、裏を返せば何かにすがるということでもあります。つまらない人とは付き合わないと決めて、人間関係を清算すると、残った人にすがることになります。目先の成功を担保に、好きなことで生きると仕事を辞めるのもそうです。別の状態へ移っただけで、本質的にはまり変わっていません。捨てた無駄には、必ず別の視点が含まれています。近傍の無駄をみだりに省くのは、視野の限定と行動の制限が伴います。だからといって何もしないのは違いますが、並行して自分の受け取り方を変化させていく必要があると考えます。何事もいい塩梅で、何を捨てて、何を残していくのか。答えはないですが、うまくやりたいものです。あの頃の薄ら笑いではなく、今なら目を据えて言えます。「いいや、必要なんだ」と。