自分の中にいくつか価値観を飼う


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事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである。
Nein, gerade Tatsachen gibt es nicht, nur Interpretationen.


これを事実だと言ってしまうと、にわかに陳腐と化すのは承知の上で、それでも言ってしまおう、事実であると。それくらい、重要なことだと思います。あえて体裁を取り繕うのであれば、的を射ている、正鵠を射ているとでも言っておこうかしら。一様に確かなものなんてないという視点は、“楽”に生きるためにも、重要だと考えています。


ふと、自分の自己矛盾に気付く瞬間があります。こっちの事象に対してはAの価値観を有しているのに、考えてみると条件が変わらないこっちの事象だとBの価値観を有している、と。正確には、自分の中で整合性はとれているけれど、他人から見える範囲の条件下では、朝令暮改になりかねないような、価値観の不一致に気付き、まさに他人からそう思われているなと実感することがあります。このブログで例えをだすらなば・・・。


一方では時間の大切さ、時間にお金をかけようと主張しているのに対して、もう一方では無駄最高!と叫んでいます。記事中には書いていませんが、昼寝やごろごろ、草むしり、散歩など、他人から見れば「言ってることとやってることが違うじゃないか」と突っ込まれるかもしれません。ですが僕の中では完全に整合性がとれています。時間にお金を書けて、時間を大切にして、使わなくていい時間は使わずに、のんびりゆっくりと、急がず生きる。これが僕の価値観です。


上記は、「自分の中では整合性がとれているが、他人からは自己矛盾に見える例」でしたが、自分の中でも整合性がとれていない場合もあります。例えば、自殺について。


「生きていても行き着く先は死なのだから、一度死んだと思って、再起すればいい。死を楽しみに、待つ間に色々試したいことを試せばいい。社会は腐っているかもしれないが、世界が素晴らしい。局所的な価値観に囚われず、でっかい世界がゆえの、ちっぽけな自分なんだ。」


「自殺を選ぶのは、現状と死を天秤にかけて、死に傾いたということ。現状よりも死がベターならば、それは自然である。それを他人が価値観を押し付けてどうこういうのは、お門違いではないか。当事者でない僕らの言葉は、おそらく正しく届かない。アプローチはすれど、自殺自体を責めるのは、慮りに足らないのではないか。」


この上で自殺について問われたら、どちらの回答を伝えるべきでしょうか。僕はもう全部伝えちゃいます。テーマが難しいほど、長く詳細に、場合分けと注釈をうんざりするほど挟んで、体裁や周りの空気など一切気にせず。このように、自分の中にいくつか価値観を飼うことを良しとしたく思っています。


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周りの空気に支配されて一方の価値観を否定してしまったり、決めなきゃいけないとある種の強迫観念のようなものに取り憑かれて悩むのは、止したほうがいいと思います。決めなくていい。こっちも正しいと思うし、こちらも正しいと思う。これでいいと思っています。


ただし他人から見て、価値観がすれ違っているのは信頼問題に関わります。社会的には言動の一貫性にも、責任が求められるでしょう。なので、伝える情報は選ぶべきです。僕のように、会社にも属しておらず、気にならない人はいいのですが、組織的なビジネスにおいて朝令暮改は致命的です。なので状況に応じて、飼っている価値観から表に出すものは選ばなくてはならないのですが、せめて自分や理解のある人の中では、一見自己矛盾にも思える複数の価値観の所有を許容すると、“楽”に生きられると思います。「そんなの当然みんなやってるよ!」という方は心配ないですが、「発言しづらそう」にしている人を良く目にします。その人に、割り切ろう!と触れ回るつもりはないですが、少なくとも僕は、自分の中に馬鹿みたいな数の価値観を飼っています。


自分の中にいくつか価値観を飼うことを、なぜ人は看過できるのかと、正確に言いますと、価値観を限定するには問いが単純すぎるんです。場合分けもせずに曖昧な条件下で、価値観の良し悪しを決める愚かさよ。なので、自分の中にいくつか価値観を飼うことは、問いに対して自分で仕切り板を立てて、それぞれに自分なりの答えを出しているだけなのです。ゆえに“楽”なのです。これを仕切り板を取っ払って、かき混ぜて混沌としようとするから、気持ちが悪くなるのです。


最後に、名言の多用というのはあまり好かんのですが、これもまた事実。


いやっ正しさなんて最初からない。あるのは正しさじゃなくて、都合だ