算数の「奇習」における問題の所在は、意味理解ではなく対応である


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算数の「奇習」


小学校の算数における「あるある」が、ここ数年間、話題になっている。「あるある」とは、かけ算の順序、足し算の順序の問題である。具体的には、『猫には耳が2つあります。猫が4匹いたら、耳は全部で何個でしょう。』という問題に対して、「4×2=8」という回答が、答えがあっているにも関わらず、「耳2つが4匹だから、2×4=8」じゃないと間違いだとされ、不正解になるという。以上のような教育が、全国の小学校で慣習化されている。先日、茂木健一郎さんがこれを算数にまかり通っている「奇習」と表現し、子どもたちに対する「虐待」だとして、多くの人の賛同を得ている。


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同じ表現を使用させていただくが、「奇習」に対して不信感を抱いている子供も多く、向かうべき方向としては、僕も大いに同意する。しかしながら、寄せられたブログのコメント欄と、はてなブックマークのコメントを拝見していると、それぞれの問題の所在はばらばらで、一貫性はないようだ。便宜上、かけ算の順序を俎上に載せて、少し記そうと思う。


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算数の「奇習」における問題の所在


「奇習」を慣習化している小学校教育界への反論として、次の3つが連動して考えられる。


・a×b=b×aである
・理解確認が指導方法の延長線にあり、未分化となっている
・意味理解を問うなら、問題に記述すべきである


まず前提として、掛け算をはじめて勉強する子供に対して、数式の意味理解を促すのは、子供が掛け算を理解する上で効果的である。その上で、この指導方法を、正誤を問うテストにまで持ち出しており、かつ問題文にその旨が記していないのが、かけ算の順序の問題における小学校教育界の落ち度である。


茂木氏のブログのコメント欄には、指導方法の有効性のみに目を向け、意味理解の重要性を説くコメントが寄せられている。しかしこれはナンセンスで、茂木氏がブログの本文中で「トリビアル」や「瞬殺」としている部分を読み取っていないことが伺える。一方で前述の通り、意味理解の重要性自体には正当性がある


これに対して、はてなブックマークのコメントにある「教授法と正誤の観点が未分化」という指摘が適用されるわけだが、これに便乗している他のコメントの中には、すっかり正当性を失っているものが点在する。意味理解自体を否定し、答えがあっていればいいとする旨のコメントである。


問題の所在は、意味理解ではなく、対応の柔軟性にある。口語で言ってしまえば、「答えは○でいいよね。でも意味理解は確認したほうがいいよね。」だ。例えば、意味理解自体を否定して、「耳2つが4匹だけれど、順番はどっちでもいいよ」と教えたとする。すると、数字だけを見て文章を読まない子供が出てきたり、逆に混乱する子供が出てくる。飽くまで「中には」だが。しかしこの「中には」が存在するのは、教育として致命的である。意味理解の欠如を看過して、「中には」を生むよりも、意味理解を促して全員が数式の意味を理解した上で計算したほうがいいのは自明である。ただし数式の意味を理解すれば、子供がその意味通りに掛け算の順序を構成するとは限らないのである。にも関わらず教師が、指導方法で自分の頭の中にしか無い因果関係をもとに、注意書きもなしに回答を設定してしまうことに、問題があるのである。


しかも中には、×にした挙句「なにこれ」など卑劣な文言を赤ペンで書くような教師もいるようだ。順序違いで×にされた子供が、親に相談し、親が教師に談判しても、ダメだの一点張りをされたとの例も、ツイッターなどでいくつか目にした。これらからも、自分本位の対応が垣間見える。


「奇習」への対処


ではどうすれば良いのか。言うだけなら簡単で、意味理解を考慮する問題ならば、その旨を問題中に記述することと、記述がないのであれば順序に関わらず回答を正解とするように、全員が共通認識を持っていればよい。実際何が難しいかというと、指導方法である意味理解と、テストにおける理解確認の未分化が問題であり、意味理解自体は問題でないという見地を、教師全員が理解しないといけない点である。表面的に「奇習」を槍玉に挙げ、問題の根幹を「トリビアル」や「瞬殺」などで表現すれば、今回のように先入観が根付いている現場では、問題の所在を冷静に考える前に、あり見地からは正当性を有する論をもって、文字通り「場違い」にも関わらずこれを展開してしまう。


この問題が露見してから久しいが、こうやって折に触れて俎上に載せ、問題提起を続けるほかないのだ。刷新されるのが理想的だが、現実には無理だろう。少しずつ、少しずつ、「おかしいんじゃないか」という声を発し続けるしかないのだ。その上で、問題の所在を明確にせねば、暖簾に腕押しとなってしまう。