過度な感謝にどう向き合うか、親切と見返りに関する雑感



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こんにちは、生かし屋(@sakihirocl)です。僕だって、人に親切にすることくらいあります。というか生かし屋なんだからゴニョゴニョ・・・なんて話を放っておいて、人に親切にした時、過剰に感謝されると「いやそこまで・・・」と思ってしまいます。そんな話をごちゃごちゃと書いていこうと思います。


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何かをしたとして、その見返りを求めるのはあまり良くないと思っています。というのも、僕は自己分析として「人に親切にするのは、人に親切にしている自分を見るのが好きだから」だと思っています。だから、困っている人には積極的に手を貸すようにしています。こちらは親切にしている自分が見れて、相手も助かる、ウィン・ウィンでいいじゃないかというのが僕の認識です。そりゃあ中にはそっけなく去る人もいますが、「ありがとうを言わないなんて!」と思うことはありません。感謝の押し売りはダサいですからね。逆説的に言うと、見返りを求めないために「人に親切にするのは、人に親切にしている自分を見るのが好きだから」という自己分析を掲げているとも言えます。この自己分析をしたのはかなり前のことで、ずっとそう思ってきましたが、ちょっと違うかな~とも思っています。親切にしたときに、大げさに感謝の意を示されると、ちょっと後ろめたくなるのです。嬉しいのは間違いないのですが、見返りを求めないかわりに、相手と自分の間にある、ナルシシズムで相殺できずにあふれてしまった感謝にたじろぎます。これは良くない状態なのでしょうか。


「親切」は人間にとって多大な快感なのです。世界で一番幸せだと言われるマチウ・リカール氏が、幸福度の測定として右前頭前皮質に対する左前頭前皮質の相対活性化を調べた際に、とんでもない測定値を記録した時に考えていたことが「愛他と思いやり」でした。ヘルパーズハイなんて言葉があって、まさにこれを表しています。情けは人の為ならずと言いますが、めぐりめぐらずとも、人に親切にした時点で人間は幸福を感じるのです。


マチウ・リカール氏について興味のある方はこちらや本などをチェックしてみてくださいね。


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ただヘルパーズハイの快感に溺れると、今度はメサイアコンプレックスと呼ばれる状態になりかねません。メサイアコンプレックスとは人を助けずにはいられないような心理状態で、自分の欲求を満たすためだけに人を助けようとします。あるときはマッチポンプで、あるときは相手の状況や後の影響など無視して。代理ミュンヒハウゼン症候群にも通じますね。宗教信者の心理状態の説明にもなりますが、脱線が過ぎるのでまたの機会に。


先程呈示した「人に親切にするのは、人に親切にしている自分を見るのが好きだから」という心理構造は、メサイアコンプレックスと良く似ています。今は出すぎたまねはしていませんし、根底に相互利益がありますが、構造的にメサイアコンプレックスが芽吹く可能性を孕んでいます。


相手の感謝の度合いが自分の価値観と乖離していることへの向き合い方を、ヘルパーズハイやメサイアコンプレックスも少し考慮しながら、考えていきます。まずは恐らく、見返りの紐付け方が少し違うのでしょう。人に見返りを求めるのと同じくらい、見返りを求めないために心理構造を設定するのはダサいですよね。だからこの自己分析自体いらないと。でも見返りは求めないのがいいですし、親切にした時に幸福を得るのも事実です。メサイアコンプレックスにさえ発展しなければ、この状態は健全であり、思いやりでどちらも幸せになる良い状態です。ここから、大げさな感謝に多少の後ろめたさを感じるのは悪なのか、と考えてみますと、逆にこの乖離を感じられる状態こそが、メサイアコンプレックスに発展しない健全な状態ではないかと思います。感謝の過多を感じるのは見返りを必要としていない状態、思いやりで幸福感を得ながらもナチュラルな価値観を保っている健全な状態だと言えます。つまり摂理としての見返りがヘルパーズハイによる幸福によって相殺されつつも、感謝を受けた時には「人を助けた時に得る幸福感」が「人を助けて感謝された時の幸福感」に置換され、その閾値がナチュラルな状態です。


何が言いたいかというと、相手からの感謝の意が過度だと思うことってあるよね、だからといって後ろめたく感じる必要はないんじゃないの、という話です。相手がそれほど嬉しいのであれば、またそれを喜べばいいんじゃないかと思います。自分自身への提案に、あれよこれよ理由をつけるだけの記事でした(笑)。