自分の記憶をどこまで信じられるか



スポンサーリンク

こんにちは、生かし屋(@sakihirocl)です。先日ちょっと思うことがあったので、短く記してみようと思います。自分の記憶をどこまで信じられるか、という話しです。


ことの発端はこの記事のこの部分。


本当かどうかは分かりませんが、知り合いの知り合いの旦那さんが、祭りの山車だかが腹に当たって、その場では異常なさそうだったのが、後日内蔵の損傷で亡くなったという話を、小学生の頃に聞きました。真偽は分かりませんが、調べてみると近しい事故は実際にいくつも起こっていて、なんだかやるせない気持ちになりました。


「本当かどうかは分かりませんが」とか「真偽はわかりませんが」と書いているのですが、僕には鮮明に、くっきりと記憶があります。どんな顔の人にどんなシチュエーションで、いつ聞いたのか、ちゃんと覚えています。なぜこうも曖昧な表現にしたかというと、どうやら僕の記憶違いの可能性があるらしいと発覚したからです。本当は記事の中で「こういうことがあった」と言い切りたかったんです。一応確認として母親に、「こういうことがあったよね」と聞いてみました。でも母親は「え?知らない」、と。当時その場にいた人にも母親経由で聞いてもらいました。でも全員、口を揃えて知らないというのです。


怖っ!!


知り合いの知り合いなので名前は知らないのが難点ですが、その場にいた人、その人の顔、小学生の頃のことだったとか、僕の記憶には鮮明にあるのです。でも誰一人覚えていないし、そんな人もいないと。いやいやいや、そういう季節だけれど、ホラーじゃないんだから・・・。挙句の果てには母親が「祭りで死んだ人の霊にでも取り憑かれてるんじゃない?(笑)」とか言い出す始末。ええ・・・うそーん。僕の記憶違いか、なんかの勘違いなんでしょうか。なので記憶の部分はぼかして、調べたら近しい事故が起こっているという表現にしたという話です。


多かれ少なかれ、人の記憶は事実とは異なります。脳によって記憶が改ざんされた偽の記憶は、別に珍しくないと研究で分かっています。記憶はまんま録画して流れているのではなく、構築するものですから、なんらかの改ざんはつきものです。今回のこともいろいろな情報が錯綜して、記憶の断片をなんども思い起こすことによって僕が勝手に思い込んだものなのでしょう。でもこうなると、自分の記憶をどこまで信じられるか、ちょっと考えたくもなります。


僕は結構記憶力に自信があります。見たもの聞いたものは人より忘れませんし、事細かに覚えています。中学まではもっと記憶力が強く、一度見たものは全部覚えてしまいました。あれ?これも都合の良い記憶?(笑) だからこそ、今回のような記憶違いはちょっと受け入れづらく感じます。今まで意気揚々と喋っていたことの中にも、嘘の記憶があったのかもしれません。そんなに気にすることではないのですが、ちょっともやもやしますね。これが顕著だと強迫性障害とかの話になるのでしょうが、ここではちょっとしたもやもやの話です。


もやもやは今回に限ったことではなく、ぽつんぽつんとありました。僕はムダ知識、いわゆる雑学が好きで、役に立たない知識で脳内をいっぱいにしたいと思っています。面白いものでムダ知識も数を蓄えると役に立つ機会も多いのですが閑話休題。雑学なんてものは雑学だからこそ、正確であってこそ価値があるのです。間違った雑学なんてただのダサい嘘ですからね。だからこそ、このもやもやが厄介なのです。雑学はさらっと言うのがかっこいいんです。僕の中で。ひけらかすのではなく、何かを解決するためにさらっと言うのがいいんです。でもその雑学が、記憶違いの可能性があるとしたらどうでしょう。


自分が持っている雑学には小学生の頃に得たものもあり、数も膨大なのでもうどれがいつ得たものか、何で得たものかが分からなくなっています。怖いことに、ふと「こういう雑学があったな」と思って調べてみると、そんな事実はなかったりするのです。こうなってくると、意気揚々と、さらっとかっこよく、雑学を披露できないじゃないですか。致命傷じゃないですか。


エトセトラ。


このように、記憶は「イメージ」や「感情」、ましてや「別の記憶」に引っ張られて形を変えることが往々にしてあります。段階的になってくると、もう原型のない「偽の記憶」にもなりかねません。裏を返せば、忘れなければならない記憶を忘れたり、精神的に看過できない生写真を改ざんしたりと、人が幸せに生きるための「機能」とも受け取れます。構築という観点からは、想像という精神作用に近しいものとも取れます。そんな記憶と僕達は向き合って生活していかなければならないわけですが、どのように考えますでしょうか。