本を読むのが遅くなった、小説の「適速」について



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小さい頃は、小説を1日に何冊も読んでいました。本に没頭すると、集中しすぎて外部からの干渉を一切遮断してしまい、母親の「ごはんできたよー」の声なんて耳に入らず、よくしびれを切らした母親に肩をトントンと小突かれていました。(一方でこれを長所とも言ってくれました。)そのころ本を読むというのは、なんと言いますか「文字を読んでいる」のではなく、「文字を浴びている」ような感覚で、目に入った言葉が次々と風景になり、まるですっかりその世界に入ってしまっていたような、いや、その世界に入り込んでいました。


時は進んで中学生、高校生。この時期は「浸る読書」から「獲る読書」に変わっていきました。特技:速読。速読で多読。とにかく速く読むことにこだわり、多くの情報を獲ることができました。感情に重きを置くよりは、情報に重きを置く読書でした。


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そしてここ数年。めっきり本、中でも小説を読むのが遅くなってしまいました。小さい頃の感覚に逆戻り・・・とはちょっと違い、どうやっても速く読めないようになり、あの頃よりもより「浸る読書」になりました。文字という文字、情景という情景、感情という感情が流れ込んできて、立ち止まらずにはいられません。速く読むと、小説の中の時間も早送りしてしまうような感覚になり、「いやいやこれは違う」となります。好きなテレビ番組も早送り出来ないタイプです。


この、早送りできなくなった、というのは自分の中で正鵠を射ていて、その世界における「間」が本来の描写と変わることが看過できない感覚です。お笑い番組でも、そのまま見ると面白いけれど、早送りして見るとつまらないことが往々にしてあります。同様に他のものにもそれぞれぴったりと設定された「間」があり、これを伸縮することは面白さ―アトモスフィアを減ずるに他ならないと思います。


と、すると小説には「適速」があるのかもしれません。読み手に依存するものだと思いますが、「本を読むのに適した速度」があると思います。適温とか、適湿とかと同じように、適速です。あまり読まないのですが、ビジネス書や自己啓発書に関しては今まで通り速く読めます。立ち止まって考える時間があるので、当時よりは遅くなりましたが。これが小説になった途端、もう無理です。速く読もうとすると、一切頭に入ってこなくなります。例えるなら今とても空腹で、通りのお店がどれもこれも美味しそうで気になるのに、立ち寄らずに素通りしている気分で、頭がぼんやりとしてきます。


考えてみれば、詩集を読む時に速読する人は稀ですよね。詩は背景や行間にたっぷりと省略されたエッセンスが落っこちているので、それを覗き込もうと足を止めるのだと思います。小説でも同様に考えることができます。小説では落っこちているのはエッセンスというか、対義語で述べるなら現象ですか、ですがそこから読み取れるものは計り知れないと思います。現実を生きていても、忖度・斟酌できることは限られていますし、同じことなのかもしれません。そうなってくると自らの人生を読むにも「適速」が・・・なんて途方もない考えが広がります。


片足が側溝にはまってまいりましたので強引に結びに入りますと、本を読むのがうんと遅くなりました。その原因は現在の感性にあって、小説などを読むに際して人それぞれの「適速」があり、感性のひとつの指標になるかもね、という話でした。みなさんの「適速」は、どのくらいでしょうか。