社会は腐っていると絶望する前に、世界は素晴らしいと気付いていたならば



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社会は腐っている。


ご多分に漏れず、中学生の頃の僕はこう考えていました。


社会に出れば、理不尽を許容し、自分を押し殺し、何かを諦めて生きていかなければならないのか。そして大人は汚い。金・地位・権力。平気で背後から射撃する。社会のシステムは欠陥だらけで、それを直そうともしない。目先の利益、貪り、舌舐めずり。社会貢献といえば聞こえはいいが、実際は歯車ではないか。


中二病にありがちな「腐った社会」観を抱えていました。だから大学を卒業したら死のうと思っていましたし、それまでに楽しみ尽くそうと思っていました。たとえそのルールに則ったとしても、未来の僕は大学を途中で辞めてしまうので、死ななくていいわけですが(笑)。今となっては、死のうだなんて微塵も思っていません。もうどうやったって幸せにしか生きようがないと気付いてからは、生きられるまで生きたいと考えています。死ぬのも楽しみですけどね。死ぬ前に何を思うのだろう、どんな感覚なんだろう、その後はどうなるんだろうと。1度しか経験できないので、さいごまで取っておきます。


さて社会に絶望していた少年は、自殺の道を引き返したわけですが、なにが彼の後ろの襟をしっかりと掴んで、絶望から遠ざけたのかというと、それは数々の創作物でした。


創作物を通して、再び現実に目を向けた時に、「ああ社会はこの世界から見るとなんてちっぽけで取るに足らないものなんだろう。そして世界は素晴らしいのだ。一生をかけたとして、1パーセントも楽しみ尽くせない。社会に心をあずけて生きていかなくてもいい、世界の素晴らしさに目を向けて生きていこう。」と思いました。宮崎駿監督の言葉を借りるならば、「この世は生きるに値する」ということに気付きました。いや、生きるに値するなんておこがましい。僕の人生は流れの中の瞬刻に過ぎないのだ。世界は唯我独尊で輝く。その一部だけでもまじまじと見れたなら。その瞬間から、僕の見る世界は文字通り色鮮やかになりましたし、今まで意に介しておらず、気が付かなかったことにも、どんどん気付くようになりました。大げさではなく。


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しかし残念ながら、中学生の頃の「腐った社会」観は、決して的外れとはいいづらく、生きていく中で社会は切っても切れない存在であるので、世界の影にのみ目を向けて絶望してしまう人は、今後も後を絶たないでしょう。若者の死因のトップに自殺が鎮座していますし、年間3万人もの人が自殺をしています。自殺をするということは、生きるか死ぬかを天秤にかけて、「死んだほうがましだ」と判断したからです。判断能力が正常な状態だとはいえないものの、自分から見た世界をもとに下した判断でしょう。


自殺のニュースを見て毎度思うことは、「社会は腐っていると絶望する前に、世界は素晴らしいと気付いていたならば」です。小さなコミュニティを世界の全てだと思い、その中で絶望して自殺に至る。いやそのコミュニティは、自分にとって大切かもしれないけれど、一度離れてみて、いろんな世界に触れてみるのはどうだろうか。こういつも思います。特に子どもにとっては、学校が世界の全てかもしれません。それ以外の道を選ぶことはリスキーですから、親も簡単に看過しません。学校以外の選択肢がないに等しいのです。たとえ学校以外の選択肢を選んだとしても、「不登校」と称され、このような言葉に学校との関係性が強制されます。子どもにとっては振りきるのが難しいと思います。だからといって、学校なんて行かなくて、子どもの頃から好きに選択すればいいとは思いません。ここでは秩序という言葉に集約しておきます。


自殺を考えている人に対して、「その悩みはどうでもいいから!他に選択肢があるよ!」というのは、ちょっと違うと思います。なぜ悩んでいるか、それは自分にとって重要だからです。それがどういう意味であれ。行き着く先は同じですが、アプローチとして寄り道感覚で、世界の他の一面を示すのが効果的だと個人的には考えています。


「社会に絶望して自殺」に対して、悔しさのようなものが胸に渦巻きます。絶望の前に、世界の素晴らしさに気付いていたならば。こう思ってなりません。かなり言葉を省いて間引きしたので尻すぼみになりましたが、自殺に対する感情の一部を記しました。折に触れてまた記したいと思います。