心理学の脆弱性について、ちょっとチラ裏的に脱力しながら記していこうと思う。まずは前提。僕は心理学についての講義を受けたこともなければ、自分で学習したこともない。基本的にド素人だと思ってもらって差し支えない。現場の人間ではないゆえ、心理学の現状について得た情報が、どの程度認知されており、かつ正確なのか、断定するのが難しい。認識が間違ったいたら指摘していただきたい。その上で、「こう思うんだけれど、心理学を学んでいる人はどうなの?」と、あわよくば意見を引き出せないかというのが、本記事の目的である。基本的にチラ裏である。それでは。
「らしい」の学問
最初に、「どの心理学について?」とつっこみを受けそうなので、先に漠然とした「心理学」についてだと言っておく。ひとしきり予防線を張ったところで、本旨に入る。まずは心理学がどういう学問かについて。
この世にある学問と呼ばれるもの、ほとんど全ては、真実ではなく観測可能域での再現性に基いて体系化されている。かなり前に科学的根拠とは何かという旨の記事を書いたが、こちらに述べている通り、観測に基づく経験則である。
https://www.ikashiya.com/entry/2016/04/02/191926www.ikashiya.com
この記事では、観測者を用いて科学の範疇外を観測し、観測結果を観測可能域に追加することによって、科学の範疇は広がっていくと述べている。観測者は時に機械であり、時に人間の思考である。観測し、別の観測の礎とするために記録する。また別の観測者が、既存の観測結果をもとに観測し、学問は発展していく。
つまり突き詰めると、多くの学問は「らしい」の学問であると言える。とりわけ心理学は、その側面が濃い。他の学問では数字なるツールを用いて、等号を結び、観測可能域での可視化された整合性・正当性に相見えることができるが、心理学ではそれが難しい。そこで、心理学の脆弱性、である。
既知の脆弱性
心理学の脆弱性を考えていく前に、同じ方向の論調が存在しているのか、確認する必要がある。「Future」と耳にすれば、ドキッとする方も多いのではないか。心理学の再現性を関する問題である。ちらっと覗いたら(この記事を書いている時点では)無料で読めるようになっていたので、気になる方はチェックしてみてほしい。関連の話も面白いので、是非調べてもらいたい。
この記事の主旨がこれを内包していることが確認できたので、話を進めることにする。心理学の脆弱性として、次の点が考えられる。
法則定立と一般性と観測者
ひとつ、テレビで目にした専門家の発言を例として用いる。ハロウィンの際、スクランブル交差点周辺の規制に関する話題で、専門家は次のような内容を述べた。「規制されてもカリギュラ効果で人が集まる。開放されても記念日効果で人が集まる」と。
心理学研究において、場合分けがどの程度なされているのか。この点が疑問であり、もし場合分けが適切に行われていないならば、これは脆弱性と言わざるを得ない。当初延々と場合分けについて綴っていたが、僕の考えに当てはまる名前を少し調べたところ、どうやら構造主義(複数ある?)という一言でおおよそ片付くらしい。
集合体とは個々からなるもので、個性記述を「場合」とし、グループ分けしたものから体系化がなされる。一方で法規定立は、場合分けのシチュエーションに、ミスが生じるリスクを拭うのが、比較的難しい。
さてここで章の冒頭で述べた例に戻る。規制されてもカリギュラ効果で集まる。開放すれば記念日効果で集まる(そもそも記念日効果は心理学で専門的になんて言うのだろう)。このような場合分けを考慮せず、ただ心理効果に名前をつけたものを、大衆に適用することに、どれほどの意味があるのだろうか。この2つで論じるにしても、記念日効果は両方に適用されるべきであるし、規制よって沸き起こる心理が、なぜ一意だと考えるのか。構造を読み解いてみれば、何も言っていないに等しいではないか。意味のない言葉を羅列している点を除いて。
ある状況での心理に法則性があり、らしいの学問の便宜上、ネーミングして扱うには差し障りないが、ツールとして使用される際に、そのレンジが考慮されていない。例えばブーメラン効果の説明として有力な心理的リアクタンスについて。心理的リアクタンスとは、選択的の自由が脅かされた時に、自由を回復しようとする反発作用のことである。「何かをしなさいと指示されたら、逆にしたくなくなる」という事例を用いて、心理的リアクタンスを説明している例が山ほどある。これは指示された本人に意向があったかどうかが考慮されていない、杜撰な例である(中には心理的リアクタンスとカリギュラ効果で区別しているものもあるが、効果と説明概念を並列するのもいかがなものか。)。何かを説明するため、便利にネーミングされたものが、何かを説明するための都合の良いツールとして、恣意的に使われているからである。研究段階では場合分けをしてあっても、研究から一歩外に出ると、せっかくの場合分けが無視されている現実がある。
観測という観点を加味して続ける。
抽象的な例だが、「波、法、洪、沙、濠」という集合体があるとする。一見場合分けなどする必要もなく、「さんずいの漢字」と観測してしまえば、それまでである。しかし場合分けをすると、「法」は現代の意味では水とは縁遠く、別のグループ(または例外)であるべきところを、概して普遍的・一般的な法則として見なしてしまう場合があるのではないかというのが、観測の観点からのひとつの懸念であり、質的研究の認識であると初見で受け取った。
この例には、実はもう1歩先がある。見る人が見れば、「波、法、洪、沙、濠」は、「国名の漢字表記」だと気付く。波はポーランドまたはボリビア、法はフランス、洪はハンガリー、沙はサウジアラビア、濠はオーストラリアである。つまり前述の「科学的根拠の根拠」で述べたような、観測者の在り方も問われているのである。全て国名の例を示したが、「汝、波、法、洪、沙、濠」となるとどうか。「さんずいの漢字」と捉えることもできれば、「国名と汝」と捉えることもできる。または「現代の意味で水に関わる漢字と汝・法(古の川に纏わる)」と分けることもできる。見る人が見れば、もっともっと分けることができるであろう。
根幹の場合分けが正しく行われているのかも、随時吟味される必要がある。観測者の設定は、大変重要となる。さらに再現を加味して続ける。
前項の再現性においても、もう1歩先の脆弱性がある。「未来を予知する心理学者」の再現性の有無は、表面的な脆弱性で、意識の問題である。しかしどこまでを前提条件とするかや、追試の仕方にも脆弱性がある。ある状況においての心理状態を観測するとして、どこまでが「ある状況」なのか。被験者と実験道具関係意外に、どれだけ外部要因が存在するか、だれが観測しているのか。分かりやすいのは地域性と時代背景である。とある実験を例に挙げる際に、地域性を考慮して参考程度に留める専門家がいる一方で、どこまでその意識が浸透しているのか、疑問である。これは実験を行う側と参考にする側、双方の問題である。
追試となると、時代背景による差違も顕著になるだろう。また観測に使えるツール・前提条件・状況が変わっていないかが、どれほど吟味されているかも疑問だ。僕の記憶では、心理学の本で初歩的に紹介されている項目の説明は、10年前と変わっていない。世間に降りてこないだけで、心理学を専門的に学んでいる界隈では、しっかりとアップデートされているのだろうか。
包括して、1番の脆弱性がここにある。学問を体系化する際、何かを前提条件としなければならない。その前提条件が、地域性や時代背景をはじめとした重要な要因が考慮された、適切な追試によって吟味されているものなのか。答えは否だと思うのである。またその再現性が確立されたとして、多角的に観測され、もっとも進度の高い観測結果が採用されているのかも、問われるべきである。この点は他の学問と違い、数値などによる絶対的な評価が難しい心理学だからこそ、留意されるべきある。
とある脳科学者が、ラジオで脳科学の発展を語るにあたって、「心理学の限界」という言葉を口にした。心理学の一般性を踏み台に、可視的な評価が可能な脳科学の優位性を語った。この言葉の裏には、上記の脆弱性が集約されているように感じた。だが心理学は脳科学の下位互換ではない。どちらも「らしい」の学問であることは違いないが、その度合いが強い心理学は、観測者の自由度が高いゆえに、より遠くまでの観測が可能である。だからこそ、観測者がどのように観測するかが、一層問われるのである。
さいごに
心理学の脆弱性だと思うところについて、観測という観点を軸に記した。まとめると、「体系化にあたって各要因の妥当性や、それを前提条件としたちいさなまとまりの一意性が、しっかりと地域性や時代背景・各前提条件をもとにその都度吟味されているのか、疑問である」といったところである。その際に適切な場合分けと、結果の見極め・選定ができる観測者の設定が不可欠である。この2点が今の心理学界隈でどのようになっているのか、是非知りたいものである。