「血の滲むような努力をして・・・」
努力にまつわる感覚として、「しなければならない」や「苦しい」といった表現をよく目にします。しかし、いつもあまりピンときません。おそらく、本気の努力をしたことがないのでしょう。一所懸命よりはやりたいことが無数にあって、どれも最大限楽しみたいというタイプなので、アスリートなどの努力観とはまるで違っているのでしょう。しかし極端でなくとも、努力を苦しいものとする認識が広い範囲にあることに驚きます。これを受けて、努力を苦しいこととするのは、あまり良いことがないのではないかと思っています。そこで努力に関して僕の感覚を記したいと思います。必然的に自分語りが多くなりますので、照れ隠しを交えていきましょう。
子どものころ、努力が嫌いでした。というより、努力という言葉が嫌いでした。そのころの知見では、努力とはやりたいことやりたくないことにかかわらず、ある目的のために自分の力を培うことでした。そして大人を含め周りを見渡すと、努力はしなければならないもので、その上苦しいものだというのが通説でした。子ども心に思ったのは、「なぜやりたくないことをしなければならないのだろう」、「なぜ苦しいと分かっていてもやらないといけないのだろう」などなど。かくして努力を忌み嫌い、努力をしない子どもが出来上がりました。
自分のやりたくないことはやらない、逆に好きなことにとことん熱中する。親もアレをやれコレをやれというタイプの親ではなかったので、やりたいことをやらせてくれました。そして幸か不幸か、僕は要領の良い子どもでした。何をやってもある程度できる。努力をしている人と同等かそれよりうまくできました。今でも「あなたの長所・強みはなんですか」と聞かれると、「総合力です」と即答します。苦虫は噛んでもらいます(笑)。でも今にして思えば、決して世に言う努力をしていなかったわけではなかったのです。結果を出せることは、時期や期間を問わずに楽しんで、自主的にやっていたことでした。
本を読むのが好きで、小学生の頃から中学校や高校、大学で学ぶことの基礎となる部分を知らず知らずに学んでいました。勉強で苦労することはありませんでした。遊びの感覚で誰よりも長くテニスをやりました。テニス部のキャプテンになりました。好きでずっと絵を描いていました。12年間クラスの代表として出展されました。好きだからこそ、うまくなろうとよく考えて、膨大な時間を楽しみました。たぶん、僕より結果が芳しくなかった誰よりも。1万時間の法則、というものがありますが、いくつかの分野でこれに当たるものもあります。気付いたら1万時間かけていたものは、全然飽きたらずに未だに時間をつぎ込んでいますし、血となり肉となり、色んなものを生み出してくれています。当人は努力をしているという感覚はなく、その様相から周りも努力をしているとは受け取りませんでした。好奇心旺盛で幅広く手を付けていただけに、「何の努力もせずに何でもできる」と観測しえたのでしょう。
それからしばらくは、努力かそうじゃないか、言葉をわけていました。世の中の努力のイメージと、僕の中のイメージが乖離していたからです。その価値観のもと努力とみなされたら嫌だと思っていました。「努力はするな、楽しめ」なんて言葉があります。とても共感でき、好きな言葉です。でも最近は、もう言葉を分けてはいません。表面的な言葉にこだわらなくても、言葉にまとまらなくとも伝えればよいと思ったからです。今の感覚では、努力とは目的のために変化すること。そして方法は自分で決められます。実力を伸ばすのも、苦しい状況からの脱却も、目的に応じた変化が必要です。そして当人の意思・希望に準じるのであれば、総じてポジティブに位置付けられます。であるならば、「しなければならない・苦しい」はいずこへ。そんなものははじめからないんです。幸せは主観なのですから。
正しい方法で正しい方向に、よく考えて努力をすれば、状況は必ず好転していきます。文字通りそうにしかならないのです。しかし運に左右されることもあります。でも運って、結構運じゃなかったりします。勝手に創りだした思い込みの結果を、運として片付けてその先を考えないことは往々にして起こりうります。見えざる思い込みで思考をストップすることは避けたいものです。そして正しい方法・方向で努力をするために、努力の準備に時間をかけることをしています。急がばまわれ、スロースタートで感触を確かめながら、ここだと確信したらペースを上げていきます、上がっていきます。
努力をすれば、少し出来ることが増えます。目標には遥か遠いやもしれませんが、確実に出来ること増えます。これはとても嬉しいことで、感覚としては初級呪文からどんどん新しいスキルを獲得して、スキルポイントを振っている感覚です。最終魔法にはまだまだ遠いですが、新しいエフェクトで、より多くのダメージがでるのは楽しいものです。苦しい努力をして、と耳にすることがありますが、大抵努力する前の状況を見て苦しいとしています。苦しい状況から、一歩すすんだということ、わずかであっても歩みに目を向けると、努力は楽しいものです。おそらく、僕の感覚は偏っています。それこそ生存バイアスでしょう。努力を苦しいと思ったこともなく、やらなければならないと思ったこともないです。でもこれが僕の感覚です。今では使うのに抵抗がなくなった、努力という言葉。努力をするために人の1万倍考えて、人の1万倍時間をかけることに、何の抵抗もありません。だってポジティブな目標に向かって、一歩でも前進できるのですから、趣味です趣味。効率なんて二の次です、寄り道もいっぱいします。効果がないようなこともいっぱいします。これが奇妙なもので、その時々が楽しいのに付随して、華麗に伏線を回収するかのごとく目標に寄与してきます。だからきばらずに、楽にとらえて努力していきます。
時に手段は苦しいかもしれません。筋力アップをはかる筋トレなど。それこそ血の滲むような努力になります。残念ながら最短にこだわるならば、避けるのは難しいと思います。こだわらないならば、確立された方法論から逸れた、自分が楽しんでできる方法にシフトをすれば、苦ではなくなります。地道な手段さえも楽しめればよいですが、あまり価値観を寄せすぎるのも、視野を狭くする原因となります。自分の中でモチベーションを高く持てる状態と、うまくリンクさせるようにもっていくと、問題ではなくなります。僕は面倒くさいという感覚があまりなく、地道に手間を掛けるのも好きなので、実はあまりわからない感覚ではあります。本当に苦しいのか、自分に問ってみてください。苦しいと思える規格外の集中力も必要なのかもしれません。
それでも努力が苦しい、向かう先がポジティブな目標ではないなら、もうそれに努力という言葉を着せるのは止したほうがいいと思います。自分の体をハンマーで叩きながら、「痛いって、痛いよこれ、痛いんじゃボケェ!」って、はい。努力の方向だけは大それてはいけないと思います。方向だけをよく考えてある程度見当をつけて、あとはぶらり。近道をゆっくりと歩く感覚。もちろん急いでもいいと思います。遠回りしても良し。目標に近付くことに喜び、道すがらも発見をする。逆風には手を広げてT.M.Revolutionごっこですよ。たまには引き返し、でも目標は見失わない。また目標は途中で変わってもいいと思います。努力のきぐるみを着て色眼鏡をかけたバイアスがでたらめな標識を掲げていたなら、カンチョウーしてあっかんべーして逃げるのです。
なんだか要領を得ない内容になりましたが、なんとなく伝われば幸いです。多くの努力は楽しいと思えること、そしてその利点について、僕の努力の感覚でした。努力は免罪符でもないですし、唯一の登竜門ではありません。努力は掲げるものじゃない、自分に捧げるものだ。なーんちゃって。