『薬指の標本』の感想。自分にとっての六角形の小部屋、カタリコベヤを持つ



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『博士の愛した数式』でおなじみ、小川洋子さんの『薬指の標本』という小説があります。かなり好きな小説の1つです。



『薬指の標本』と『六角形の小部屋』の二篇が収録されていて、どちらも魅力的なお話ですが、特に好きなのは『六角形の小部屋』の方です。あらすじはこんな感じ。

「わたし」は、プールで偶然出会ったミドリさんという初老の婦人に興味を持ち、そして六角形の小部屋を知ることになる。「わたし」と六角形の小部屋とそれにまつわる人との物語とわたしの恋人の関係の物語。(薬指の標本 - Wikipedia)


本筋も不思議な雰囲気で大変面白く、思慮の余地を残しながらも、心が動かされる物語なのですが、この記事では六角形の小部屋のみをピックアップして記していきます。この六角形の小部屋、カタリコベヤと呼ばれていて、閉鎖された小さな空間です。人々はお金を払ってこのカタリコベヤに入り、自由に語ることができます。普段は表に出せない、胸に秘めたこと。他人には聞かれたくないこと。普段は繕っている、本当の思い。六角形の小さな空間の中で、語るのです。自分に。自分自身に。部屋の中にあるのは、ランプと椅子と自分だけで、外には一切声が漏れません。


おそらく僕たちは普段、自分の人格の全てを表に出しているわけではありません。いくらかは隠して、外の世界と向き合っています。それは社会的に必要な能力で、互いにコミュニケーションを潤滑に行うために、無くてはならない機能だと思います。ですがずっと隠したままにしておくと、徐々にその形になってしまうのではないかと、考えています。ドーナツの穴はドーナツかという問いがありますが、もともとドーナツだった穴が、ドーナツじゃなくなるような感じでしょうか。穴も含めてドーナツだったものが、いつしかぽっかりと空いたただの穴になってしまって、もう自分の中でもその形がデフォルトになってしまうような、そんな現象。何か忘れているのではないかと、常々思うような、そんな引っ掛かりはありませんか?


普段は隠していても、自分の中に確かにあるものを確かめるように語ることができるのが、カタリコベヤだと思います。自分との対話が出来る場所は、ありますか?場所といっても、比喩ですが。ですが具体的な場所、自分にとっての六角形の小部屋、カタリコベヤを持つことができれば、その場所がトリガーとなって、儀式的に自分と対話が出来るきっかけにはなります。


今まで生きてきて、誰しもに一度は、「特別な場所」があったのではないかと思います。思えば僕も、昔から自分だけのカタリコベヤをずっと持っていました。小学生の頃は通学路にあったコンクリートで出来た倉庫の上、中学生の頃は近所の小さな墓地、高校生の頃はとある本屋さんの裏、大学生の頃は田んぼが広がる高架下、今は・・・もう場所によらずに語れるようになりました。それでも、ちょっと特別な場所は点在しています。その場所に行くと、特に何をするでもなく、ぼんやりと自問自答を繰り返します。一通り自分と対話が終わると、おもむろに腰を上げて、ゆっくりと伸びをし、「よし」と呟いて帰路につきます。


自分の人格の一部が、いつのまにか「自分だったもの」にならないように、自分自身に語りかける機会を設けるのは、とても大事なことだと思います。忙しさにかまけて、目を瞑っていると、いつしかその目は開かなくなるかもしれません。場所である必要はありませんが、自分にとっての六角形の小部屋、カタリコベヤはどこか、一考してみるのはどうでしょうか。物語のように、誰かが持ってきてくれれば良いのですが。あるいは、もう誰かが持ってきているのかもしれません。自分で決める必要もないですね。そこに空間があって、そこに入って、語るだけ。物語の通り、その場所はある日消えてしまうものだけれども、その頃にはもう、大丈夫。