祭りに殺された人達 死者が出る祭りはやめにしませんか



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こんにちは、生かし屋(@sakihirocl)です。突然ですが、祭りで死亡事故が起こっているのはご存知ですか?たとえば岸和田だんじり祭や、御柱祭、その他けんか祭りなどで、毎年のように死者が出ています。


だんじり衝突し屋根崩落、見物客1人死亡 兵庫・三田 :日本経済新聞


「祭り 死者」などで調べると、悲惨な事件がいくつもできてきます。


今になってこんな記事を書こうと思ったのは、とある記憶がきっかけでした。本当かどうかは分かりませんが、知り合いの知り合いの旦那さんが、祭りの山車だかが腹に当たって、その場では異常なさそうだったのが、後日内蔵の損傷で亡くなったという話を、小学生の頃に聞きました。真偽は分かりませんが、調べてみると近しい事故は実際にいくつも起こっていて、なんだかやるせない気持ちになりました。


伝統的なお祭りがあって、人が死亡する危険があるとして、伝統を守って続けるべきだと思いますか?僕は、最低限死亡事故のリスクがなくなるように、形態を変えるべきだと思います。伝統を守りたいというのもわかります。祭りを楽しみに、生きがいにしている人がいるのもわかります。でも人が死ぬんじゃあ、それは伝統ではなく因習と言います。


祭りだいなり人の命という図式は、いかにして成り立つのでしょうか。歴史と伝統で目を塞ぎ、思考を停止した集団心理が伺えます。死者が出る祭りはやめように対する反論として、以下の意見を目にしました。


・歴史と伝統がある
・嫌なら引っ越せ
・他所者が口を挟むな


下2つは暴論もよいところなので置いておくとして、歴史と伝統にどう向き合えばよいのでしょうか。歴史と伝統があれば、人が死んでも続けるべきなのでしょうか。恐らく、「続いている」ことだけに執着して、意義を考えたことがないのではと思います。いや、歴史と伝統は反論の建前に過ぎないかもしれません。ただ生まれたときからあるのが当たり前で、地域単位で価値を見出していて、なんといいますか、ある種宗教的な一面があるのでしょう。祭り自体が宗教的な意味を持つのでややこしいですが、現代の祭りは儀式というよりエンターテイメントの側面があると思います。


けだし祭りには目的があります。何かを祝うもの、祈るもの、慰めるもの、献上するものなどなど。それが長い間行われるにつれ目的が薄れ、祭り自体が価値を持ちはじめたのでしょう。祭り本位だからこそ、形態を変えるのを嫌がるのだと思います。


遺族はもちろん、「死亡者がでる祭りなんてやめよう」との意見は当然、現地でも出ていると思います。ですが中止はおろか、改善もされません。言い出せない「空気」があるのだと思います。「空気」は強固かつ厄介で、こと日本において多大な支配力を有します。一度「空気」に突っぱねられると、地方コミュニティにおけるいわば防衛本能が働いて同調し、人は次々に思考と止めてしまいます。だからまわりから見ると異様に感じます。


「変だぞ」と思ってもコミュニティ内では言いづらいものですが、今はインターネットがあるので、世論を巻き込むことができれば、改善せざるを得ない流れを作ることが出来ます。祭り自体は良いと思いますが、人が死なないような形態に変えるべきだと思います。たとえ歴史や伝統が薄れようと、時代錯誤でカルト的な因習にとらわれるのは、やめにしませんか。みなさんはいかが考えますでしょうか。