では、「生きやすい」人はどのくらいいるのか



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見渡せば、「生きづらい人へ」と題して書かれた読み物が次々と目に飛び込んできます。そこで一つ、疑問が湧きます。では、「生きやすい」人はどのくらいいるのか、ということです。


「生きづらい人へ」書かれた読み物は、時にベストセラーになり、時にインターネットで話題になって、多くの人がその解決策を求めていることがうかがえます。自分が遭遇する実社会でも、会社の理不尽な仕打ちに不満を持ったり、気丈に振る舞っているように見えても、やるせなさやしこりを抱え込んでいたり、生きづらそうにしている人を目にします。もちろん、「そういう一面がある」なんでしょうけれど。対象は違えどみな、どこか「生きづらさ」を携えていて、まったく「生きやすい」人というのは、あまりいないように思えます。このことについて、少し記そうと思います。


社会・世間における生きづらさと、人生における生きづらさ


はじめに、生きづらさ・・・社会不適合性には病気が伴うかどうか、この一点があると思いますが、ひとまずは分けた上で概して記していきます。


生きづらさを感じている人に、何が原因だと問うと、もっとも想像しやすいのは「自分と社会・世間のズレ」だと思います。社会・世間に対して自分は劣っている、はみ出し者である、または出る杭として打たれる、社会・世間が悪い、価値観があわない、などなど。これを解消するためには、いわゆる世渡り上手になる必要がありますが、今度は本当の自分像との葛藤が生まれます。つまり「社会・世間における生きづらさ」と「人生における生きづらさ」は分けて考える必要があります。


社会の局所的パレート最適


社会・世間の枠組みでは、生きやすい人はあまりいません。なぜなら、社会はそういう構造になっているからです。一言に社会といっても、その意味は多様を極めますが、ここでの社会は「人間がその時代の価値観において、みながある程度の水準で生活できる集団としての営み」とでもしておきましょう。言い換えれば「みんなでルールを決めて、みなで補い合うことで、最低限の『嫌なこと』を受けないようにしよう」といった感じでしょうか。ニュアンスよ、伝われ。


則ると、役割分担し、多かれ少なかれ何を犠牲にして、水準の平均化を図ることになります。格差は置いておきましょう、最低ラインの話です。僕達が平時を営めるのは、多様な役割のもと様々なインフラが整備されているからです。役割分担は、意図せず配役される場合、本人の意志とは異なる場合、自己の水準を下げなければならない場合などの犠牲を伴います。それぞれの役割は社会の運営に欠くことができず、いつも人手不足です。つまり社会は、「生きづらい人」を生むことで成り立っている、という側面がある思います。


誰かの犠牲がなければ、正常に運営できない社会、少しリンクする言葉があります。個人の満足を減ずることなしに、いかなる人の満足も増すことができない状態、これをパレート最適といいます。小さい頃、僕はこれを他人の不幸がどうとかいう話題で知ったので、すこしニュアンスが違うかもしれません。今調べてみると経済の用語みたいですね。そっちはあずかり知らずです(笑)。


だれかがやらなければならない仕事、損な役回り、そんな役回りがあります。誤解を恐れず極端な例を挙げれば、原発事故に現場で関わる仕事などがそうでしょうか。また「ほんとはこんな仕事したいわけじゃないんだけどなあ」と思っている人もいるでしょう。


犠牲への矜持


「もともとやりたい仕事ではなかったけれど、人が誰もやりたがらない仕事だけれど、自分は今この仕事に誇りとやりがいを持っているんだ」という人もいるでしょう。例えば低賃金・低スキル・重労働、マニュアルに沿うだけの単調で将来性のない仕事をマックジョブといいます。上記でいうところの、犠牲かもしれません。でもそのような職についている人の中にも、矜持をもって立派に仕事をしている人もいます。というか恐らく世の存在するほとんどの仕事は、幼いころに描いた綺羅びやかな青写真とは違っているのではないでしょうか。100%自分の意思で事が運べる仕事は、ほぼないでしょう。みな何かしらの犠牲のもとに仕事をしています。


犠牲という表現は適切ではないかもしれません。でも社会の一面を語るに、言い過ぎではないと思います。次項の世間と合わせて、現に実社会において幾人が業務中に死亡・怪我をし、幾人がうつ病になり、幾人が過労により身体・精神に支障をきたし、幾人が仕事を理由に何かを断念し、幾人がハラスメント・理不尽さにさらされているでしょうか。


仕事への矜持は美しく、先人たちのスタンスを聞くに膝を打つばかりですが、では「あの時選択の余地があれば」と問えば、暫し思案投げ首になるかもしれません。結果的に良かったというのが、客観的に見れば正当化でしかない場合もあれば、「人生は第2希望」と言ったように、漂流の幸せもまた、理解できます。その良し悪しはケース・バイ・ケースで、知る由もありません。


仕事の楽しさは人間関係で決まったり


大成できない職業や、スキルが身につかないバイト、マックジョブが悪かと問われると、僕は一概にそうは言えないんじゃないかと思います。例えばスキルがなーんにも身につかないアルバイトだとして、その職場に好きな女の子がいたらどうでしょう。その時間は、人生にとってスポットライトを当てるに値する、かけがえない時間になると思います。同僚との楽しい会話やエピソードもそうです。ラジオなんかを聞いていると、パーソナリティが話す下積み時代・バイトのエピソードがやけに面白かったりするんですよね。エピソードになるという点で、マックジョブだとしても決して悪ではないと思います。スキルが身につく職業でもエピソードはできるだろうとの反論があるかと思いますが、一つの視点から言うところの犠牲的な職業はどうやっても必要で、それこそそれぞれの職業には定員があるわけです。それにそこでなければ出会えなかったこと、一意性もあるでしょう。逆に言うとエピソードも生まれなければ楽しげな会話や淡い恋心もないような環境での仕事、はやく時間がすぎればいいと思うような仕事は、劣悪であるとはっきり断言します。


どんな仕事をするかと同じかそれ以上に、誰と仕事をするか、もとい誰と過ごすかは重要で、時に仕事に付随する生きづらさなど度外視できるほどの生きやすさを生みます。


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世間


社会と似たような営みに、世間があります。世間とは「ある集団が形成されたときに生じる見えざる力」とでもしておきましょう。空気とかしがらみとか付き合いとか、そういうものです。


世間も社会と似たような側面があります。「見返り」「立場」「統率」「見えざるルール」などの単語を並べるとイメージしやすいでしょうか。世間の厄介な点は、強制性のないことだと思います。みんなやっているけれど、別に絶対しなくてはならないという取り決めはない、でもやらないと不都合が生じる、またはその不安が拭えない、かといって決まった罰はない、というような空気の中だからこそ、人は世間と自己の狭間で葛藤します。


この葛藤やズレが大きいと、人は生きづらさを感じます。加えて葛藤やズレのポイントは無数にあるため、多くの人がある点での生きづらさを感じることになります。


貰ったんだけれど返さなきゃだめかな・・・。自分は別でしたいことがあるけれど、みんなと足並みを揃えないとどう思われるか・・・。物申したいことがあるけれど、あの人には立場的に言えないな・・・。このルールは何の意味があるんだろう、でも守らないと奇異な目で見られるし・・・。


これらを昇華し、「世渡り上手」を顕現させたとて、今度は本当の自分との差違がじわじわと懐から広がってきます。これも紛れもない生きづらさで、世渡り上手だから生きやすいというわけにはいかないと思います。


社会と世間の外にあるもの


上の項目から、現代社会・世間において全くの「生きやすさ」の中で生きるのは難しいと思います。だから「生きやすく」生きるためには、社会と世間の外にあるものに目を向けるべきだと思います。


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生きづらさを感じる社会や世間は、この世界全体から見るとちっぽけなもので、例えば壮大な自然とか、ミルククラウンの美しさとか、その外にあるものを拠り所にすることで、生きづらさが占める割合を減らすことができます。ですが現状に生きづらい社会での営みがあるのならばそれは視線そらしでしかなく、個人レベルの話で根治ではありません。多少の生きづらさはスパイスになるかもしれませんが、いくら外に目を向けても確かにある呪縛から抜け出さなければ、いずれ営みに支障をきたすことになります。人生楽あれば苦ありですが、楽しくできるにも関わらず苦に甘んじるのは違うと思います。たまに避けがたい苦もありますが、基本的には楽しいことと、とびきり楽しいことで満たせれば、こんなに良い営みはないと思います。


ただ前項までで述べたように、みんながみんな生きやすさを求めて行動力を発揮してしまうと、社会は成立しなくなってしまいます。


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個人的な話と、受け取り方が9割


個人的な話をします。ここまで書いてきてさぞこの人は生きづらいのだろうとお思いの方もいるでしょうが、実は僕は「生きやすい」人側だと思っています。「生きやすくなった」というのが正しい表現です。学校に通っていた頃は「腐った社会」観を持っていましたし、人付き合いも「世渡り上手」とは程遠いものでした。普通に大学を卒業して就職をし、会社員をしていれば今頃、僕は生きづらさをこれでもかと抱えていたと思います。幼少から自分の性分は分かっていましたから、僕はこれを避けました。仕事や仕事をする人を選べるような環境で、社会や世間から適度に距離を置いた生活ゆえに、今はすごく生きやすい世界だと思っています。


とはいえ、一歩外には生きづらさが広がっています。いわば「生きやすいと思える選択肢にステアリングするしかなかった」という生きづらさがあります。生きやすく生きるために、大きく環境を変えなければなりませんでしたし、普通に就職する選択肢はありませんでした。


大きな環境の変化をなしにして生きやすさを求めるならば、受け取り方を変えていくのが良いと思います。これも個人的な話をするならば、暫く前の僕は怒りっぽい性格でした。あれが気に食わないだとかこれが嫌いだとか。前の項目で示した記事でも書いていますが、膨大な数の創作物に触れるうちに、何通りもの生き方を目の当たりにし、色んなことが許せるように、楽しめるようになりました。(まだまだ道半ばではありますが)なんでも楽しむ達人となった今は、もう不幸せになんてなりようがありません。理不尽に立ち向かわなければならない時もありますが、多くのあったぼこしゅもないことは、受け取り方ひとつで生きづらさとは無縁の営みを送ることができると思っています。


理想を言えば(というかこの記事は理想で出来ている)、世の中の人がみな温厚な受け取り方をすれば生きづらさはほぼ拭えるのですが、果てしなく青写真ですね。


人工知能は生きづらさの生態を変えるのか


社会の構造的に、現代人の生きづらさは拭えないと書いてきましたが、たった今この時代は、生きづらさにおけるパラダイムシフトと言っても過言ではないチャンスを迎えているような気がします。


https://www.ikashiya.com/entry/%E4%BA%BA%E5%B7%A5%E7%9F%A5%E8%83%BD-%E8%81%B7%E6%A5%AD%E7%BD%AE%E6%8F%9B-%E5%A4%9A%E6%A7%98%E6%80%A7www.ikashiya.com


以前こちらでも書いたのですが、人工知能やロボットによる職業置換です。人工知能やロボットが人の仕事を奪うという考え方ではなく、「(人間のうち)誰かがしなければならない仕事」を人工知能やロボットがやってくれるようになることで、上記でいうところのパレート最適を破砕できるんじゃないかという考え方です。


実際置換されるのは頭を使う職業だったりして、どれほどの生きづらい人々が解き放たれるのかは疑問です。それでも、今ぱっつぱつでまわっている社会で幾分かの職業において、機能するのに必要な人間の数が減ることで、余剰な人が生まれます。社会としては今まで手が回らなかった部分に役割を振ることこそ本望だろうと思いますが、リソースとしての人間に余裕ができた分、一人あたりの責任を減らすように舵を切ってもらえれば、生きづらさをピンっと引っ張っている空気も、少しは弛緩するんじゃないかと思ったり。めちゃんこ難しいですけれどね。


奪われないようにではなく、今ある仕事のうちどれくらいが人工知能に取って代わられて、それから余剰になった人たちでどんなことが出来るのかを考えると共に、余剰になった人がある程度自適に生きても成立する社会のしくみ作りが、人工知能が台頭しはじめた現代社会の課題ではないでしょうか。


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病気と生きづらさ


さて一旦置いておいた病気による生きづらさについても記そうと思います。大きな病気や障害があると、それだけで生きづらさを背負うことになるます。皆と同じ機会での生きづらさではなく、個々についてまわる生きづらさなので、「なんで自分だけ・・・」という念に駆られやすく、今世への絶望にまで育ってしまうこともあります。


愛しさと せつなさと 心強さと


僕は大きな病気や障害はありませんが、視力は0.1以下で耳は難聴気味、鼻は生まれつき右が狭くて通年でアレルギー性鼻炎、吃音症・本態性振戦などちょこちょことした病気や障害と付き合ってはいるのでこれをもとに、生きやすさに昇華した僕のスタンスを少しだけ。


まず僕はこれらを引き合いに、予防線を張ったり言い訳をしたりします。ずるいんじゃなかって思うかもしれませんが、そうじゃなくって、目に見えない障害は黙っていても相手には伝わりませんし、そんなことあずかり知らずで評価されます。なのでもうはじめに、フランクに話しちゃうのです。発表の前に「吃音症だから言葉に詰まったらごめんね~」とか、会話の中で「本態性振戦って地味な病気なんだよ~」とか、「ごめん耳遠いからもう1回言って!大きな声で(笑)!」みたいに、どんどん話しちゃいます。知られたくないこともあるでしょうから人によるのでしょうけれども、相手の認識の中の自分と実際の自分との違いが生きづらさにつながったりするので、こちらから積極的にすりよせます。


もう1つ、どうしようもない欠陥、偕生之疾は愛しさに昇華しちゃいます。うまくしゃべれないこの口とか、何かと震える手とか、もう愛しくて仕方ありません。もちろん治るに越したことはありませんが、難しい場合は付き合っていく必要があります。付き合う以上は、いい関係でいたいし、そちらのほうが自分も楽だと思います。これが僕の病気や障害との付き合い方です。


無病息災の生きづらさ


一方で言い訳できない生きづらさもあるんじゃないかと思います。僕が発表の時に「吃音症なもので、よしなに」と言えば、僕のハードルは下がりますが周りの人は自然と「出来て当然」に仕立て上げられます。言い訳できないですからね。仕事においても、「〇〇さんなら都合があってしょうがないけれど君は許されないだろう」のようなプレッシャーがあるんじゃないでしょうか。


また軽度の発達障害は大人になっても自覚症状がなく、潜在的にそれなりの数がいると聞いたこともありますし、病気や障害がない(という前提条件のもと相手から評価される)からこそ言い訳できず、生きづらくなる人もいるでしょう。学校でも度々見かけました。ただこれについては人間関係が大きいですかね。


さいごに


この記事が要領を得ずにだらだらと書かれているところがすでに、「一寸先は生きづらさ」の社会であると、自分で書いていて滑稽に思います。この記事を書こうと思ったきっかけは、ふと「いつの間にか生きやすい世の中になったなあ」と思ったからです。ティーン・エイジャーのあいだ、本当に生きづらさを抱えていました。それでもめちゃくちゃ楽しかったけどね。みな多少の生きづらさは抱えているでしょうが、多くの人は概して生きづらいわけではなく、玉石混淆に日々を送っていることでしょう。玉の割合を増やすという表現よりは、石の存在も意識にいれながら玉を楽しむって感じでしょうか。例え下手か。それではここらへんで、お付き合いありがとうございました。