科学と非科学の同居、人はなぜ疑似科学・奇跡体験・宗教を信じられるのか



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宗教にのめり込んでいながらも、普通に生活していれば、整合性の取れた思考でコミュニケーションを交わし、何ら違和感なく集団に溶け込んでいる人たちがいる。彼らはなぜ日常的に科学的な見地を取り扱いながら、一方で非科学的な奇跡体験を違和感なく信じることができるのか。疑似科学にしてもそうである。なぜ科学と非科学的、論理的思考と非論理的思考が同居できるのか、考えたことはないだろうか。


先日より少し考える機会があり、やきもきしているので、少しそのやきもきを記そうと思う。脳の機能としての情報の扱い方や、体験と記憶のプロセスを用いて説明している記述は、専門書を探せば見つかると思うが、読んでそのままここに記しても仕方ないので、人の心理が伴う構造、伴わない構造をそれぞれ散らかったまま、ぽつりぽつりとまとまりのない形で部屋に置いていくイメージで、書いていこうとおもう。


画期的な観測機器と、視野・視点の限定


人はどのようにして「信じる」のか。整合性の取れた前提条件と、その延長線上での観測結果があれば、人は信じてしまう。体系化に伴い、その都度の前提条件の確認・精査が、見えない川に沿って歩くに必須となるが、とりわけ画期的な観測機器を用いる場合は、前提条件を疑うことを忘れてしまうのである。こうなってしまうと、裾が濡れているのに気付かずに、どんどん深みに入り、いずれ流れに足を掬われる。


画期的な観測機器は、専門研究の場において大変有用であるが、前提条件を表面的にしか汲まない世間の人々にとっては、厄介な存在になる。ここでいう観測機器とは、具体的な機器ではなく、抽象的な「メガネ」である。画期的な観測機器は、画期的な観測結果をもたらす。世間の人々の多くは、その前提条件に思慮の余地はなく、結果だけを捉える。メディアに扇動された「疑似科学」がいい例である。


とある実験で一定条件下における効果が観測されたとして、専門知識の乏しい世間の人々の多くは、その科学的構造を理解できない。理解しようとすら思わない。まず研究の詳細に触れられる場が、そもそも希少であるし、落とし込まれた情報は、「科学的根拠」に担保されたものだと考えるのは自然で、情報を全て吟味するほどの時間もなければ、重要性もない。ゆえに分かりやすい前提条件を与えられ、画期的な観測機器による観測結果を提示されると、「弱い」のである。


質が悪いのは、故意的か恣意的かに関わらず、前提条件と観測機器の提示に、悪意が伴う場合である。


さて、人はなぜ奇跡体験を信じられるのか。大衆を前に、耳が聞こえづらい人を登壇させ、教祖が耳に手をかざす。これで耳が聞こえるようになったと、教祖は言う。さっきまで耳が聞こえづらかった人は、確かに聞こえるようになったと言う。大衆がどよめく。一般的な人々は、この光景をみて唖然とするだろう。なぜ信じることができるのか、ただただ疑問に思うはずである。そこに耳が聞こえるようになる科学的な「常識」は皆無で、おそらくこの社会に生きていればすべての人が非科学だと理解できる。だが、この奇跡体験を信じる人が、確実にいるのである。


どうして科学と非科学が同居できるのか。奇跡体験を信じる人は、視野・視点が限定されており、科学的な留意があるにもかかわらず、奇跡体験という画期的な観測機器を用いた観測結果を前に、その前提条件は視野外にあり、視点違いとなってしまうのである。視野外・視点違いにある前提条件など、はじめから無いに等しい。


例えば、なんの知識のない人間が、最低限の理解度を有して現れ、地上から月を見上げるとする。満月だ。地上は「目」という観測機器を用いるにでこぼこはあるが平面的で、月は2次元的な円に見え、表面には少し濃淡があるように見える。その人間に、性能の良い望遠鏡を与える。人間は、月の表面をみて、その観測で知り得る情報を、新たに獲得する。この情報は画期的である。月の表面には確かに模様があり、その模様はどうやら地上のでこぼこと同じように見える。この情報の重要性は、望遠鏡という画期的な観測機器を用いた人間にとって、計り知れないほど巨大である。さてこの人間に、地球と月は球体で、地球は自転や公転をしており、月はその地球の周りをまわっていると理解してもらうにはどうすれば良いだろう。月のでこぼこの規模、月の裏側、ひいては宇宙について理解してもらうにはどうすれば良いだろうか。


果てしない。自分の目で観測した情報のインパクトが、大きければ大きいほど、その情報の詳細(ときには間違いを)を第三者が指摘し、理解してもらうのは難しい。違う前提条件を提示するならなおさらだ。何しろその人の中では、前提条件は確固たるもので、自分の目で見た画期的な観測結果を理解するに足る。いや、そうでなくてはならないものだからである。


人は何かを観測する際、観測対象に対して、ある視点からの前提条件をもって観測結果に整合性を見いだす。その視点の1つが「科学的」であり、「科学的」に不具合がない世界であることが、相互観測されているからこそ、スタンダードになっている。では違う視点ではどうか。違う視点からでも、一定視野下において、前提条件と観測結果に整合性が見いだされてしまうのである。ちょうどインフルエンザウイルスのヘマグルチニンが、細胞のシアル酸と結合してしまうように。こうなってしまったが最後、整合性がとれた前提条件と観測結果は、細胞内に送り込まれたインフルエンザウイルスが増殖するように、その視点下においてどんどん確かなものになってしまうのである。


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科学は安寧に敗北する


視野・視点の限定はどのように起こるか。集団心理と言ってしまえば簡単だが、社会と個人を対比すれば、個人の重要性など地に落ちる。人々は安寧の地を求める。僅かな角度差ではあるが、2方向、いや3方向から。


社会における個々の安寧


人は一人では生きていけない。社会において、集団の中にある個々という構図は、安寧を求める上で優先度が高い。ならばと「科学的」視点ではなく、「社会的・集団的」視点から観測する。残念ながら、2つの視点にはそれなりの差違がある。しかし幸か不幸か、この2つの視点にまたがって整合性のとれる観測結果が、多くを占めるのである。


結果、「集団における個々」としての自己成就的予言を尊重するのである。確証バイアスに気付かない。科学的でないことに不都合がなく、集団的に都合の良いならなおさら、事は歩を進める。「科学的」は、社会・集団における「安寧」に敗北するのである。ここまでならば、まだ良い。本当に厄介なのは、二重構造になってからだ。


「科学的」から少しずれた「社会的」視点。さらに特異的にずれた「特異集団的」視点からの観測が、安寧の地となってしまった場合である。この構図の具体的な例が、「カルト宗教」である。もう1度、科学は安寧に敗北するのである。


この二重構造が「大学生のノリ」の一面でもある。


www.ikashiya.com


以前こんな記事を書いた。まさに、まさにである。当人に主体性が見えず、群れとしての意思を個人の意思として混同しているのである。当人たちは楽しんでいるが、社会的には痛々しくみえる様から、社会的な視点からすらズレた、特異集団的な視点が伺える。だが彼らにとっては集団的こそが安寧の地であり、他は敗北するのである。


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可視化された真実の安寧


一方で、皮肉なことに科学の発展自体が、視点のズレに拍車をかけている。「科学の進歩」に担保された安寧の地を見つけて、人々は腰を下ろす。


wired.jp


記憶に新しいこの記事にも、如実にあらわれている。

のどごし勝負の市場原理、すなわちニーズ至上主義と、それをドライヴすることにおいて何にもまして威力を発揮するデジタルテクノロジーが手を組むことによって生み出されたこの奇怪な現象の奇怪さは、それを批判したところで批判がまったく意味をもたないという点にある。

何せ相手は閉じた系のなかでウィンウィンの関係にあるのだ。である以上、その系のなかにいる人間は、外部に耳を貸す義理もなければ義務もない。いや、市場という外部の信任を得ている以上、それは「正義」ですらある。そこでは議論はおろか、対話すら成立しない。

(「ニーズ」に死を:トランプ・マケドニア・DeNAと2017年のメディアについて|WIRED.jpより)


詳しくは、上の記事の行間を読んでもらいたい。これに対して、僕は「可視域が広がった結果、人々は安息の地を見つけやすくなったのである。」とはてなブックマークに書きこんだ。科学が発展し、社会が発展した。人々は自分で何かを探ろうとせずとも、見渡せば「自分のほしい答え」が見えるようになった。そしてその妥当性は、科学の発展が担保してくれる。


よって人々は、個々で真実を追究するのをやめた。いや、もとよりそうであった。科学の発展により可視域が広がった今、その範囲がより広がったのである。すでに解明された事柄を、例えば画期的な観測機器としてメディアが伝えたところで、その妥当性を疑うモチベーションが、人々にはないのである。そしてそのモチベーションをもつことは、気力と時間を要した上に、社会的・集団的において「デメリット」のほうが多いのである。集団において可視化された真実が、「科学的」かどうかはという吟味は、唾棄されて当然の境地にまで、科学と社会が発展してしまったのである。最後にもう1度、科学は安寧に敗北するのである。


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さいごに


ぶっちゃけてしまうとこの記事は、「宗教にハマった遠い知人に、どうすれば目を覚ましてもらえるのか」の前段階として、思考の断片を書いたものである。それも宗教法人ですらない、カルト宗教集団の心霊商法である。これは社会が抱える問題でもあり、進捗度も低い。周りから見れば、「騙される方が馬鹿」と 口を揃えて言うような、突拍子もないことでも、信じてしまう人がいる。度合いは低くとも、疑似科学も同じような側面がある。昔から迷信があったように、不都合のないものは看過してもかまわないし、サンタクロースのように、時に世界を楽しむエッセンスとして、科学的な視点からずれることも、本当の安寧には必要だと思う。だが、概してそうはなっていない。不利益を被っている人が確実にいる。当人が幸せならいいのではないか、マインドコントロールを逸するにはどうすればいいかなど、本旨に関してはまた別で記事にしたいと思っている。


科学と非科学の同居、人はなぜ疑似科学・奇跡体験・宗教を信じられるのか、まとまりのない形ではあるがその一片を書いたつもりだ。出来れば、もっと込み入った構造を伺いたい。